岩手での復興支援2011/04/03 22:02

ひさしぶりに更新します。
ずっとtwitterメインでしたが、
今日から仕事で岩手単協の復興支援に来ているので、こちらに毎日のことをまとめていこうと思います。

10時に大宮を出て、東北自動車道で岩手へ向かいました。
放射線測定器を持って、途中で測りながら行きました。
やはり、福島第一原発から近い郡山、本宮付近は、数値が500cpm程度と、高めでした。
あくまでも相対的な数値なので、相澤君ってほかの人よりちょっと背が小さいね、くらいのものだと思っておいていいと思いますが。

途中、警視庁の車両がすごい列で走っていました。
おそらく、先発の人たちと交代するためでしょう。

明日から盛岡センターに行きます。
今日は宿泊場所の花巻のお宅へ。
盛岡の副理事長さんの実家を借りています。
とても快適です。こうしてウェブも使えています。

ミーティングでの盛岡の専務の話。

高橋徳治商店さんは、これから人海戦術で泥だしの段階。
阿部寿は、物資的にOKだけれども、これからの漁師さんたちのモチベーションが課題。
重茂は、物資はOK。自分たちで立ち上がる意気込みもある。お給料を明日から支払うそうです。しかし、漁協の中は一枚岩ではない、という状況もあるようです。

盛岡センターとしては、物資は野菜がトラック3台分余っているが、どこに持っていくかを検討中。
ニュースでもやっていましたが、物資は来ているが、整理ができていない状況。
ものよりも人が足りていない状況だそうです。

明日は、今日作業をした人はヘドロで汚れたカッパを洗いつつ、休養。
明後日は配送。
泥だしは7日から再開するそうです。

4月5日、6日 復興支援報告(高橋徳治商店・船越漁協)2011/04/06 21:43

5日は高橋徳治商店にいってきました。
笹かまぼこなどの練り物の生産者です。
作業する人数は9名。
職員のほか、学生ボランティアも2名来ています。
津波が家の中まで入ってきて、もう住めるような状況ではありません。
大体20cmくらいのヘドロが家の中の隅々に入り込んでいます。
それをスコップでかきだしながら、
家のものも外に出していきます。
アルバムや、食器類など、必要そうなものは別にします。
本も沢山ありましたが、もう読めるような状態ではありません。

滞在3日目にして、やっと支援らしい支援をしました。
約4時間程度の作業で、やっと2部屋の泥を出し終えました。
ちょうど社長がやってきて、僕らにお礼をされていました。
きっと本当に本当に大変な気持ちだと思いますが、
それでも前を向いて、まっすぐ立とうという姿勢が見えました。
すごい人だなぁ。

6日(今日)は、船越漁協に支援物資を届けに行きました。
野菜中心で、あとは砂糖・梅干し・フリーズドライの味噌汁などです。
「漁協に持って行くように」と言われて行きましたが、
漁協はどうやら建屋が大破していて、地図のそれらしい場所に行ってもありませんでした。
途中に駅があったはずの場所にも、何もありませんでした。
線路もキリモミにねじれていて、その上に自動車がちょこっと乗っています。
船越漁協周辺の地域は、まさに壊滅的状況です。
8mの堤防がコテンと倒れていました。
ホーマックが海沿いにあったのですが、
屋根と看板だけを残して、骨だけになっていました。
瓦礫の片付けもあまりできていません。
さすがにちょっと背筋が寒くなる思いがしました。

漁協から一番近そうな、少し高台になっている消防署の屯所を紹介されて、物資を届けました。
そこは避難所ではなく、家に住んでいるけれども支援を必要としている人たちにモノを配るための場所です。
避難所にはモノが余っているようで、野菜などは断れることも多くなってきたようですが、
こういうところには足りていないようです。
喜んで受け取られていました。
しかし、こういう集配所には不満を挙げる人も多いらしく、マネジメントにかなり苦労されているようでした。

僕らが支援物資を運ぶ目的は、提携生産者の重茂(おもえ)漁協の復興支援。重茂漁協が復興するためには、周りの漁協の復興もなくてはいけない。ひいては、その地域全体の復興がなければいけない。
なので、今回は重茂漁協の依頼として、船越漁協へ届けるというスタンスでした。
ただやみくもにモノを配るだけならば、自衛隊でも、公的機関でもできます。

生活クラブが目指すのは、提携生産者とまた取引ができるようになること。それすなわち地域の本当の復興です。


あんまり時間をとって書いていないので、
ほとんど書き殴り状態ですが、ご了承ください。
帰ってきたら、感じたことなど、じっくり書きたいと思います。

4月7日~11日支援報告2011/04/11 22:33

7日は高橋徳治商店のヘドロ出し作業でした。
この日は本丸(魚が腐ってひどい臭いがして、真っ暗な工場内)の作業だということで、心づもりをして行ったら、
結局外に溜まったヘドロを土のうに詰める作業でした。
まぁこれも結構骨が折れる作業ですが、
本丸に比べたらずいぶん楽な作業でした。

でも、手で土嚢に詰めていたら、変な感触のものが。
反射的に手を引いて、よくよくそのものを確認したら、
50cmくらいの魚でした。もちろん、死んでますが。

この日に工場内の機械を出して、これから水洗いをしていく算段。

・・・でしたが、夜にまた余震&小さな津波が来て、
危うくまた機械がやられるところでした。
後日談ですが、津波はそんなにひどくなかったそうです。
でも、またちょっと地盤沈下して、さらに海が近くなったとか。

この日は東京のAさんが帰る日でした。
まとめてくれていた人だったので、これからは僕が頑張らないと。


8日は重茂と船越に物資支援。
僕は学生ボランティアと研究室の先輩でもある職員と3人で船越へ。
4か所の避難所と支援物資引取所に行き、
現状を聞き取りながら物資を降ろしていきました。
一昨日に行った田ノ浜の消防屯所に、
必要だと言っていたお米を届けられてよかった。
生活クラブはちゃんと約束を守ってくれるって、伝わったかな。
あと、学生ボランティアのN君の聞き取り調査ぶりが非常に素晴らしかった。
彼自身、生活クラブに入りたいと言ってくれていて、
どうにか力添えをしたいところです。

重茂はこの日に毛布2000枚と、牛乳450本、お肉も届けました。
船越が終わったあとに行ったときにはもう全部引き取られたあとでしたが、
来る途中で女子中学生が自分が運転する生活クラブトラックを見てにっこり笑っていたのを見て、
あぁ、僕らはちゃんといいことできてるんだな、って思いました。


9日は学生ボランティア二人と埼玉のAさんとお別れ。
学生二人にはたくさんお土産渡しました。
Aさんもさりげにドリップコーヒーを大量に持ち帰った模様。

この日は丸壽阿部商店に行きました。
ここは高台にあるので被害はありませんでしたが、
牡蠣のパック詰めなどの加工をやっている会社なので、
原料がなくなってまったく操業できていない状況。
これからは広島や北海道から取り寄せて、
少しでも仕事をやっていきたいとのことでした。
とにもかくにも、今被災地で必要なものは、仕事です。

あと、首都圏の人には、とにかく経済を回してほしい、とおっしゃっていました。
じゃないと被災地の復興も遅くなってしまう。

だからみんな、自粛なんて言っていてはいけません。
遊びましょう。
飲みましょう。


10日はお休みでした。
じゃじゃ麺を食べて、花巻温泉につかりました。
夜ごはんに前沢牛を食べたかったけど、
どこにも売ってなくてあえなく断念。


11日は神奈川のお二人に朝、お別れをしていきました。
この日は岩手の専務と二人で高橋徳治商店。
いつもは作業ですが、今日は物資輸送です。
会社の集会に合わせていくつもりでしたが、
石巻駅周辺の渋滞&道が余震で悪くなっていてスピードが出せなくて遅くなってしまい、ついたころには解散し始めていました。

それでもいた人みんな喜んで受け取ってもらって、
中には電話をもらって戻ってきた人もいました。
ミニトマトは目の前でみんな食べ始めていました。

どこの被災地も食べ物はあることはありますが、
生鮮野菜は不足しがちです。

帰りに一関の豆腐工場に行ってきました。
ここの工場長のおうちは余震で傾いてしまったそうです。
工場も配管が壊れて、一日出荷ができなかったとのこと。
内陸の被害はほとんど伝えられていませんが、
余震は内陸のほうがかなり被害が出ています。
それでも出来立ての油揚げとがんもどきをいただきました。
夜ごはんに食べて、ちょーーおいしかった。

この日は専務とゆっくり話すことができて、有意義でした。
味わい深い人です。

4月12~15日岩手支援報告2011/04/15 22:04

思ったより日が過ぎていました・・・。
でも、一日は長いんですよね。
まだ2週間とは思えない・・・。

12日は3度目の船越へ。
僕は変な話、もう見慣れました(慣れなきゃやってられません)が、この日は前日夜に合流した神奈川のNさんと一緒。
初めてで船越は結構強烈です。
あー。って言ってました。
この日は初めて漁協の組合長とも話せたし、再開した漁協の支所へも行けました。
前に行って、あまり物資が足りてなさそうだったお寺に大量のお米を置いてきました。そこは避難所でもあり、近くの在宅被災者にも分けているようです。

しばらく物資支援を続けてきて、「もらい癖」がつく人達が出てきています。
Nさんの長靴を見て
「これももらえるの?」と聞いてきて、
Nさんが「いや、これは僕のなんで・・・」っていうと、
「なんだよー!」みたいな。

生活クラブの支援も、あくまでも「復興」支援であり、
そのためには引き際を考えなければいけません。
最低限の物資ならば、公的機関を通せばすぐに自衛隊などから物資が供給されるようになりました。避難所ならば間違いなく来ます。
食糧だけでなく、長靴や衣類ももらえます。

しかし、商店などが営業を再開したのならば、そちらに買いに行くのが、商店の人にとっても、その地域にとってもメリットになります。
この見極めがとても難しいところです。

正直、パイプ役の人以外の人たちに被災状況などを聞き出すのはちょっと難しいです。
というか、聞いたところでしてあげられることはありません。
だから、周りの状況(商店が開いたとか、販売車が来るとか、ライフラインがいつ通るとか)を聞いて、それを踏まえて判断していくだけです。


13,14日は高橋徳治商店の機械洗浄でした。
社長のリレーエッセイが、震災の3日前にUPされています。
http://seikatsuclub.coop/item/relayessay/20110308.html

神奈川からの2名と僕の3人で、津波で水没して錆がでてる機械の可動部分を中心に洗いこんでいきます。
水をかけたり、歯ブラシ的な道具でブラッシング、霧吹きを使ったりして洗っていきます。電気と水道が通っていれば高圧洗浄機を使えるのですが、どちらもありません。
っていうか、この地域はもう地盤沈下で、満ち潮になると工場の目の前まで海が来てしまう状況。
電気は通るかもしれないけど、水道は通るのかなぁ?そもそもこの土地をどう扱っていくんだろう?

機械は練り物がこびりついていて、マイナスドライバーなどの金物を使わないと取れない部分も多くあります。
2日目は社長も一緒に作業してもらったため、分解できる部品は社長にやってもらってかなり効率UP。
外にでている計10台程度の機械全てを洗浄できました。
中には材料が機械の中に残っているものもあり、かなり強い臭いもあった。
近くにおいてあったイワシの写真はツイッターにあげてあります。
それを見るとその香りはうかがい知ることができるかも。

両日の昼食時には社長の話を聞かせてもらいました。
解雇した従業員を日雇いして、第二工場の冷凍庫内の魚を撤去する作業をしてもらったとのこと。
あまりの臭いに、10名中2名が卒倒したとのこと。石巻漁港全体がかなり強烈な臭いがあるため、その元になる冷凍庫内の臭いは、それはもう・・・

帰りは神奈川から支援に来た二人と第二工場と石巻漁港を見てきました。
第二工場の大破した姿(これもツイッターにUPしてます)と、
今はさっぱりなくなってしまっている日本一の収量を誇る市場があったところを見ました。

昼食時に社長が、改装したばかりのお風呂や、新しく買ったテレビなどが全部津波でやられてしまったことをお話ししていました。
どう言葉をかけていいかわからず、だまっているしかありませんでした。
でも、こうして具体的なお手伝いをすることで、
社長が前に進む気持ちを大きくさせられることを期待して支援できればと思ってます。


15日は重茂漁協。
もう重茂で生活クラブを知らない人はいません。震災から幾度にもわたって支援を続けています。沿岸部に組合員を作れないのが残念でならない・・・。
まぁ、それはいいとして、今回は以前に要望のあった衣類。
今回、ちょっともって行き過ぎたかもしれません。
長野の組合員さんの協力で15000枚以上があつまりました。

そして、いつも通り中学校にも牛乳を。今回は飲むヨーグルトつきです。

今日は組合長さんからのメッセージをビデオ撮影しました。
近々みんなが見られるかも。




被災地に不足しているものは?と聞かれることがありますが、
なかなか難しい質問です。
有り余っているところもあれば、そうでないところもある。
半端な数だと、みんなに分けられないから逆に迷惑。

強いて言うならば、乳製品と豆製品が足りてない傾向です。
あとは、生鮮野菜。
一度にたくさんはもらえないけど、1週間に1度くらいは支援がないと、
底をついてしまう。
米や、日持ちのする食べ物は自衛隊さんがたーーーーくさん持ってきてくれていて、要望すればまた持ってきてくれます。

これからは在宅被災者のことも考えないといけません。
お金のこと、仕事のこと、住む場所のこと・・・

「復興」
それはそれは難しい言葉です。


最後に一つ。
高橋徳治商店の社長(高橋英雄さん)にメッセージを送ってください。
http://www.as-love.com/usr/img-d/sr3_bbss.cgi?cat=271sinsai

あなたができる復興支援です。
お金がなくても、ほんの数分で、心の復興支援はできます。