自分の全てを表出するバドミントン2006/01/16 19:57

以前にタイトルのような言葉を出して、それについての説明が不十分だったことに、コメントをいただいて思い出しました。

凄く当たり前のことを書いてしまいますが、
自分の器が小さければ、自分の全てを表出したところで、できるバドミントンはたかが知れています。
逆に、どんなに自分を大きくしたところで、バドミントンに自分の存在をかける気持ちで取組まなければ、バドミントンで自分を表出することができません。

ずいぶん前から考えていることなのですが、
スポーツは凄くできるけど、あとはちゃらんぽらんな人がいます。
凄いパフォーマンスをするけれど、私生活はめちゃくちゃな人は、
おそらく一般に思われているよりもたくさんいるでしょう。
メディアが選手を美化しますからね。
そういう人たちはなぜそこまで強いのか。

当たり前に書いたけれども、「自分の存在をかける」ということが、
その人たちを強くするのではないでしょうか。
自分が自分であることを証明するために一番最適な方法がそれであれば、
それにたいして全てをかけることは非常にわかりやすい話だと思います。

で、自分の話にもってくると、
おいらは器用貧乏タイプの人間です。
どれもちょっとずつ手を出すから、何か一つにたいして本当に自分の全てをかける、ということをしない傾向があると思いました。
逃げ場があるんですよね、いろんなところに。
それがいいという人もいるけれども、おいらは自分の全てをかけている人に魅かれます。

かけていきたいです。


一日に2回もブログを更新することは非常に珍しいことであり、
しかもそれに満足してまた更新を怠ることもよくある話で、
つまりは次も期待せずにお待ちいただければと思います。

コメント

_ TATSUYA ― 2006/01/19 11:23

なるほど~自分も中学校のバレー部時代、「部活だけでなく授業でもバレーと同じ姿勢で取り組むんだぞ」と言われました。これって非常に重要で、真理をついている言葉だと思います。
好きなこと一つに一生懸命に取り組む、という考え方としては賛成出来ますが、部活に限らず、ある一面だけは一生懸命やるけど、それ以外のことは適当に取り組む人を見るとやっぱりその人を疑ってしまうし、全面的に肯定することは出来ません。自分に対しては親切な友達が、他の人には挨拶さえしない様子を見ると、なんだか影を見たように寂しくなります。逆に言うと、例えば暴走族とか薬物に手を出してしまう人は、その法律に触れる極端に悪い部分だけを指摘されるのではなく、それに至ってしまう生活習慣そのものに焦点を当て改善していかなければ、根本的な違いは生まれてこない、ということですよね?
そう考えると、やっぱり色々なことを一通り満遍なく出来、そこに足をつけて一つの特長を伸ばすということが出来るといいかな、と最近感じます。(言うまでもなく、おいらさんならできると思いますが!!^^)自分も「何か一つに対して本当に自分の全てをかける」の追求に自分自身納得していないので、このアメリカ滞在中に人より一歩抜きん出た「これが自分の得意なこと!」と言えるものを3つ身につけたいという目標を持っています。
お互い自己追求の旅ですね。
(少々偉そうなことを言って、すみませんでした)

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